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高野和彦は、阿佐ヶ谷の実家に住んでいる。つきあい始めてすぐの頃、「今晩、家来る？」って聞かれて、のこのこついていったら、おかーさんにお出迎えされてしまった。先に言えよって感じである。ま、普通は困るのだろうが、その、おかーさんがまた、ちっともおかーさま然としていなくて、「絵美さん？ 絵美ちゃんでいいわよね。お風呂入ってらっしゃい。うち、お湯は売るほどあるから」
と、初対面でけたけた笑うような人で、というか、本当にお風呂屋さんだからお湯を売っていて、おとーさんと番台を交代したおかーさんの前で、私はいきなり全裸をさらした訳である。
「絵美ちゃんも、今度、番台手伝ってよ」
「いやぁ、それは、ちょっと……」
「あら、どってことないでしょ、あんなの芋とか人参だと思えばいいのよ」
あんなのって……。
ま、そんな感じで、私は、ほとんどかわいい嫁状態で、高野家に出入りするようになったのである。それにも関わらず、八年もつきあって、どうして未だ結婚に至っていないのか。そう、問題の根は意外に深かったりする。 |
 いつものように、番台のおかーさんに挨拶する。さすがに「ただいま」とは言わないが、「ごめんください」でもなく、「どーもー」とか、いい加減な感じで。おかーさんに「久しぶり」とか言われて、少しおしゃべりしてから、脱衣場を抜け、廊下を渡って母屋に回る。ちょっと、ひんやりしてる。おとーさんが入院してから、この家は体温が下がっている。高野和彦は、自分の部屋でパソコンに向かっていた。
「よっ」
「よっ」
コンビニで買ってきた缶ビールを差し出す。高野和彦は、椅子をぐるっと回してこっちを向く。あたり前のように受け取って、プシュッと開ける。
「まだ仕事？」
「あとは明日、会社で」
パソコンも終了。
「じゃ、ま、一応、乾杯」
「ほい」
プシュッ。私も、ベッドに腰掛けて缶ビールを掲げる。乾杯。何に？ この凪のような関係に。ちびちび飲みながら、映画フェスティバルの話をする。ここんとこ観た膨大な映画について語る。まゆえの悪口と、ちょっと見直したエピソードなんかも教える。高野和彦は、やっぱりちびちびやりながら、格別面白くもなさそうにふんふんと聞いている。そう、和ちゃんに会えば、いつもこんな風に、自分の匂いがついた毛布にくるまってヌクヌクできる。でも、いや、だからこそ、恋しているときの炭酸みたいにピリピリささる刺激が、ときおり無性に欲しかったりするのだ。
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 「ね、イヤー・オブ・ザ・ドラゴンって一緒に観たよね？」
「観たっけ？」
「ビデオで。ジョン・ローンとミッキー・ロークが出てるやつ」
「ああ、すんげえ前ね」
「お風呂出てくるの覚えてる？ 中国系の美人のレポーターがさ、マンハッタンの高層マンションに住んでて、部屋のまん中に、プールみたいな感じでお風呂があるの」
「あれ、風呂だっけ？」
「うん」
「なんか、ミッキ・ロークが土足で入って、むかついたのだけ覚えてる」
「それそれ……ね、おとーさん、どう？」
「あんまりよくない。悪くもなってないけど」
「そう」
「はやく結婚しろって」
「ああ」
「かあさんひとりじゃ大変だからって……する？」
あんまり自然につるっと聞かれて、私は、思わず頷きそうになった。最近、こんなことあったような……デジャブ？ いや、違う、笹本クンじゃないし……ああ、おっさんか。
「する？ って、和ちゃん、したいの？」
「わかんないけど」
「おとーさんのためにするの？」
「それもあるけど……」
「じゃ、おかーさんのため？」
「……」
そんなんでいいのか、高野和彦。自分の結婚だろ？ 私たちの結婚だろ？ そんなんだから、こんなんだから、私は、ずっと、八年も、ずっと……。
「和ちゃんが、本当にしたくなったら考える」
結局、その晩は、けんか別れする訳でもなく、ハッピーエンドになる訳でもなく、いつものように私たちは一緒に眠った。今さら怒ったりしない。八年というのは、そういう年月である。
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 当然だが、翌朝出勤すると、笹本クンは怒っていた。昨日と同じ服の私を一瞥したときには、フンと鼻の鳴る音が聞こえたような気さえした。ま、そりゃそうでしょ。やたら怖い顔で電話をしている笹本クンを見ながら、私が彼の立場でも怒るもんなぁと、他人事のように考える。さよなら、笹本クン。いいです、あなたとは仕事のおつきあいで。あれっ？ おいおい、受話器を置いた笹本クンが、つかつかと私のデスクまでやって来るではないか。
「北野さん、ちょっと会議室まで」
ったく、仕事中ですよ。しかし、二言目の「すぐに」は、有無を言わせぬ口調だった。仕方なく、笹本クンの後を追う。
「北野さん、稲田さんとホテルに行ったの？」
会議室の戸を閉めるや否や、本題だ。稲田さんって、あっ、おっさんか。ああ、そういうことだと思ってる訳？
「あの、それはですね……」
「今、稲田さんと三枝さんが警察にいる」
「えっ？」
「三枝さんが、稲田さんを暴行罪で訴えるって騒いでる。ゆうべ、ホテルに連れ込まれて、レイプされそうになったって」
まゆえが？ おっさんと？ いや、おっさんがまゆえを？ それは、きっとなんかの間違いだ。おっさんは、まゆえに映画を見せようとしたのだ。そう。そうだよ。そうに違いない。
「警察が、きみにも事情聴取したがってる。稲田さんが、きみともホテルでイベントの資料映像を観たって証言してて」
「ええ、その通りです。ホテルで……仕事しました。三枝さん、なんか誤解されてるんじゃないでしょうか？」
「いや、誤解っていうか、なんていうか……彼女の会社が、我が社との仕事自体を見直すって話までもう出てる。稲田さんはさ、うちからお願いしたプランナーだからね」
「それって……あの、じゃ、映画祭は？」
「今はものすごい微妙。ま、こんな話がクライアントの耳に入ったら、一発だろうけど」
「私、話します。警察にも、三枝さんにも。稲田さんは、そんな方じゃありません。絶対、誤解です」 |
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私は、すでにほとんど椅子から立ち上がっていた。すぐに行かなきゃ。何をどうしたら、そんな話になるの？ まゆえ、あんた、なんか誤解してるよ。おっさんだよ、そんな訳ないじゃん。
「北野さん、あのね、ちょっと落ち着いて。きみにはもちろん警察で証言してもらう。ただ、こう言って欲しいんだ。稲田さんは、きみのこともレイプしようとしたって」
えっ？ どういうこと？ 何言ってんの？ 意味わかんない。笹本クン、ごめん、ほんとわかんない。 |
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