「早かったわね」
母が、女学生みたいにはずんだ声で言った。早いか? 十時も回っているというのに。当然だが、誰とも話す気分ではなかった。早く帰宅したのは、失敗である。ここぞとばかりに母のおしゃべりが始まるに違いない。手負いの私に、成す術はない。
「ご飯は?」
「食べた」
母が、一瞬、あれっという風に私の顔を見た。えっ? 私、泣いてないよ。
「お風呂、入ったら?」
「……うん」
「おかあさん、沸かしてあげる」
女学生から新妻に変身した母は、過保護全開で、そそくさと風呂場に向かった。
湯船につかるのは、久しぶりだった。おもいっきり手足が伸ばせる広い湯船なのに、私は体育座りをして両膝を抱えた。小さくなりたかった。毬藻になりたかった。毬藻になって、死ぬまで湯の中で丸まっていたかった。「トモちゃんはトモちゃんでしょ、五でも六でも」言われなかったことばを思い出していた。言われたことばの方は、思い出そうとしてもよく思い出せなかった。意味だけが、涙になって流れていた。涙はいつまでもいつまでも止まらなくて、お風呂がどんどんしょっぱくなっていく。斉藤さんの代わりにコアラを憎もう。海の日にコアラなんかだっこして、ばかみたい。海の日にカンガルーと泳ぐなんて、ばかみたい。海の日に会社に行くなんて、ばかみたい。でも、私は、海の日に、斉藤さんとどこに行きたかったんだろう?
ガラス越しに、母の影が見えた。
「かあさん、先に寝るからね」
「はーい」
「いい加減にしないと、のぼせちゃうわよ」
「はーい」
「……たまには、今日みたいに早く帰ってらっしゃい。トモちゃんの家なんだから」
「……はい」
ごめんね、おかあさん。ざばーっと大きな音をたてて、湯船いっぱいの小さな海に、私はもう一度潜った。
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・第一話
ぴよーんハルナ
・第二話
男の夕飯
・第三話 湯舟いっぱいの海
・第四話
ただ、あなたの、ただ、あなたの
・第五話
姉キのまずいまずい熱燗