のれんの脇に立ってすでにビールを飲んでいた夫は、私にも350mlの缶を差し出した。さんきゅ。ゆっくり歩き出す。件の「神田川」など、口笛で吹いている。いい気なもんだ。
「おまえ、赤いてぬぐいってみたことある? 」
「ない」
「だろ。変なんだよ、この唄。だいたい、男がなんでそんな長風呂な訳? 女の髪が芯まで冷えるって、相当でしょ? 」
「あの頃、男の人も長髪でしょ。髪洗うのに、時間かかるんじゃないの? 」
「そっかなぁ……じゃ、あとね、なんで、優しいと怖いの? 優しい方がいいでしょ、普通」
「……裕ちゃん、わかってない」
「えっ?」
「優しいから怖いんじゃなくて、そんな幸せ、続かないってわかってるから怖いんでしょ? 」
「優しいのって、続かない?」
続かない、と、答える代わりにプルトップを引いた。だって続かないじゃないほら、と、夫をなじりそうだった。あなたのいまのやさしさなんかうわべばっかりじゃないほら、ほんとにしんそこやさしかったじきなんてほんのちょっぴりだったじゃないほら。出かかったことばをビールと一緒に流し込んで、私は新しいお風呂を思った。今度のお風呂、外国の映画に出てくるようなバスタブがいい。白くてつるつるしてるやつ。寝そべって上を見ると、おっきな天窓がついてるの。星がきらきらしてて、空には満月。手をのばすと、その満月が毬みたいにころがって、それを湯船に浮かべるの。浮かべて遊ぶのに飽きたら、小さなかけらにくだくんだ。壊れた月のかけらでね、お湯もきらきらきらきらするの……。
「あのさ……」
来たな、と、身を固くした。
「また来よう、銭湯。なっ。」
「……どうせ、お風呂なおるまで、通わなきゃ」
「うちのも、でっかい風呂にするか! 」
見上げると、まんまるの月が、一度も欠けたことがないような顔をして、二人を見下ろしていた。ただ、あなたの、ただ、あなたの、ただ、あなたの……私の中では、音楽まで壊れているというのに。
●Back Number
・第一話
ぴよーんハルナ
・第二話
男の夕飯
・第三話
湯舟いっぱいの海
・第四話 ただ、あなたの、ただ、あなたの
・第五話
姉キのまずいまずい熱燗